立つ位置で変わる視点

ブログ「帆人の古代史メモ」201127日号を読ませていただいた。それはNHKスペシャル「邪馬台国を掘る 卑弥呼はどこにいたか」に対する痛烈な批判を展開されています。重大な論理的な誤謬を読者に押し付けている箇所があります。これは許されることではありません「帆人の古代史メモ」から長文を引用することになりますが、ご容赦をお願いいたします。

 

123日のNHKスペシャル「邪馬台国を掘る 卑弥呼はどこにいたか」が、またまた奇妙な邪馬台国畿内説キャンペーンを行った。

今回は、纏向遺跡発掘で出てきた2,000個を越える桃の種を卑弥呼の鬼道と結びつけ、あたかも卑弥呼の宮殿発掘に挑んでいるかのようなドキュメンタリー番組に仕立てている。

 元々は前方後円墳、次には三角縁神獣鏡を邪馬台国畿内説のシンボルとしてきたが、それが揺らいでくると、各地の土器がでてきたからここが邪馬台国だと言い、木の仮面が出たからこれを卑弥呼の鬼道と結びつけ、大型建物が出てきたから卑弥呼の宮殿と大騒ぎし、今度は、桃の種である。

 この奇妙な一連のキャンペーンの非科学性には呆れる以外にない。しかし、「冗談でしょう」と笑って見過ごす寛容さを保つのは難しい。このような考古学者とマスコミの知性の冒涜を許すわけにはいかない。

第1に、私たちは絶えず邪馬台国の位置は何で決まるか、という基本命題、原点に立ち返らなければならない。それは、魏志倭人伝である。魏志倭人伝がなければ、卑弥呼も邪馬台国もないのである。

 この魏志倭人伝によれば、梯儁(ていしゅん)等と張政等が2度、邪馬台国を訪れており、後者は、卑弥呼と狗奴国の争いの応援に訪れ、卑弥呼の死後、男王と壱与派の争いに壱与を助けて王とし、都に壱与の使い掖邪狗等二十人とともに帰国したことが明らかである。軍事顧問の張政等は数年にわたって滞在したに違いない。従って、彼らは倭国を熟知している。

その彼らの報告をもとに書かれた魏志倭人伝には、邪馬台国までの経路(進行方向と立ちより地点)と総距離、所要日数が書かれている。それによれば、総距離は12,000余里、韓国の西岸から東岸までが7,000余里、渡海1,000余里が3回、対馬と壱岐の1辺がそれぞれ400余里、300余里であるから、残り1,300余里が倭国本土の末盧国から邪馬台国までの距離である。朝鮮半島~対馬~壱岐~九州本土の渡海各1,000余里をもとに、地図の上で小学生にでも分かる比例計算で1.3倍の距離をとれば、1,300余里は九州本土内を出ることはありえない。大和には絶対に届かない。

 さらに、座礁回避の航海原則からみて、当時、九州沿岸で安全に大型船を係留できる上陸地点は呼子以外にありえない(ヨットマンやカヌーイスト、航海士なら同意されるであろう)。呼子から陸行に移行し、伊都国あるいは奴国、不弥国まで歩き、再び回航してきた船に乗ることはありえない。邪馬台国は上陸地点の呼子から陸続きの場所にある。

また、邪馬台国の方角は上陸地点から東南から東、さらに南の方角にあり、東ではない。

 「南至邪馬台国、水行10日、陸行1月」については、上陸地点の呼子から「水行10日」と「陸行1月」の2つの報告が、後の印刷の際の校正者によって、合体された可能性が高い。「水行120日+陸行1月」という解釈は畿内説の1つの解釈にすぎない(「帆人74」参照)。魏志倭人伝によれば、正使は陸行し、皇帝からの贈り物は喫水の浅い倭舟に移し、副使が女王の都へ届けた可能性が高く、前者と後者の2つの記載を後世の校閲者が間違って1本化したことが、混乱の元である。

 距離、方位、渡海・陸行、日程の4つの位置情報のうち、わずかに最後の1つについて畿内説の可能性があるだけであり、邪馬台国畿内説は否定されざるをえない。畿内説の皆さんが、足し算や比例計算ができず、ヨット・カヌーや徒歩旅行の経験もなく、方向音痴であるのは自由であるが、だからと言って、そのような偏った経験則をもとに、梯儁等と張政等、三国志作者陳寿を同類と決めつけるのは間違っている。

 

 長文の引用になりました。「帆人の古代史メモ」を書いた人の「重大な論理的な誤謬を読者に押し付けている箇所があります。これは許されることではありません」とするところは、「私たちは絶えず邪馬台国の位置は何で決まるか、という基本命題、原点に立ち返らなければならない。それは、魏志倭人伝である。魏志倭人伝がなければ、卑弥呼も邪馬台国もないのである」という

箇所です。

 確かに『魏志倭人伝』は、邪馬台国の女王卑弥呼の情報を持っています。その邪馬台国時代の同時代の文献史料であることは重要な意味があります。しかし、だからといって、金科玉条のごとく『魏志倭人伝』に頼る歴史考察は、諸刃の剣になるのではないでしょうか。「帆人の古代史メモ」を書いた人は、勾玉や縄文時代のことは一言も触れておりません。縄文時代から弥生時代へと続く歴史観は、それらの時代の考古学的遺物とともに重大な意味をもっています。特に縄文時代の勾玉の意味を抜きにした「邪馬台国論」こそ、重大な論理的な誤謬を読者に押しつけていると思います。許されることではありません。勾玉は、弥生時代の祭器である鏡と剣とともに三種の神器とされています。

日本の大転換

やっと、短文ですが、書く気になりました。

最近、中沢新一氏は新聞紙上に新党結成をほのめかし、関心を抱く人たちに衝撃を与えております。中沢氏は、急遽『日本の縄文の大転換』という本を出版し、政治の分野への参加を画策しているようです。

その新聞記事と本を読んで、私は元気が出てきました。中沢氏のいう「大転換」とは180度の政治的理念の切り替えを意味します。当然、それは人々の生き様に反映されてきます。現在の経済優先の世界は危機に瀕しています。

梅原猛氏は多神教でないと、これからの人類は救えないと、いろいろなところで声高にのべています。世界で残された多神教国は日本とインドです。私も及ばずながら、縄文思想を研究する者として、中沢氏や梅原氏に賛同し、縄文思想を一人でも多くの人たちに伝えて行きたいとおもいます。

勾玉は「二つで一つ」。望んでいるものが生れるかどうか?。6と8は進化しています。ひとことの励ましこそ、大きな力になります。がんばって行きます。

中沢新一著『精霊の王』に寄せて

中沢新一著『精霊の王』に寄せて

一度救われたと思ったのに、逆戻り

私が中沢新一著『精霊の王』を読んでもっとも興味を抱いたのは、巻頭の3枚のカラー写真に映るシャグジです。それには渦巻きらしい文様と3個の双曲三角形に囲まれるように同心円文が刻まれています。これらの文様を刻むシャグジがどこにあるものなのか、なぜか説明書きがありません。仮にこのままシャグジの存在が確認できなければ、このシャグジをテーマとした文を書くことができません。塩尻市北小野を辰野郡北小野と記すのは、ミスプリントで許されるとしても、どこにあるシャグジかわからない写真を掲載し、それに基づいて論じることは、フィクションであると言われてもしかたのないところです。 (続きを読む…)

拙著『伊勢神宮二十年式年遷宮の謎』が発売されました。

『伊勢神宮二十年式年遷宮の謎』表紙『伊勢神宮二十年式年遷宮の謎』「伊勢神宮に発見される縄文文明」(彩流社、A5判上製カバー、382頁、3500円)が発売されました。 (続きを読む…)

一つのシャグジを追って<その2>

一つのシャグジを追って…<その2>
 中沢新一氏著『精霊の王』(講談社、2003年)に載るシャグジは、最初の図として掲げるものです(図1-①・②・③とする)。これらの写真と本文中の写真(図2―①・②・③とする)の図2―①が同じものであれば、何も問題は発生しません。同じものであることの証明は、図1のシャグジに見る三種類の文様を図2―①のシャグジに刻まれているかどうかにかかっています。 (続きを読む…)