今こそ、縄文の和の心を

 信じられないことですが、ある現役の大学の教授が、聖徳太子が制定したといわれる「十七条の憲法」の第1条に書かれる「和をもって尊しとなす」に対し、「チャンチャラおかしい」という信じられない言葉を使った表現で論評文を書いています。これを見た私は目を疑いました。読み直しても同じ文字がありました。
 この教授は聖徳太子架空説を唱えています。これについては各研究者独自の考え方があり、異議を差し挟む余地はありません。しかし、「和をもって尊しとなす」に対し、「チャンチャラおかしい」という表現は、研究者にあるまじき言葉使いだと思います。

 『日本書紀』は、日本国を「やまとのくに」と書き、さらに『記・紀』は「大和」をヤマトと読んでいます。さきの研究者は、なぜ「大和」という名称があるのか、考えられたことがあるでしょうか。そして、ある質問者の回答に窮したとき、「私は弥生時代の歴史に詳しくないので…」と発言しています。この大学教授は学問の責任の重さを認識されているでしょうか。
 ところで、わが国の古代人は樹木に「和」の精神を発見していたと思います。山々に繁る木々は保水能力をもっています。この山の木々から生じた養分は、雨が降って川の中に混じり海へ流れて行きます。その養分をめざして汽水部分にプランクトンが発生します。そのプランクトンを狙って多くの魚が集まってきます。
 山から海への自然の流れは、また海から山への流れにつながっています。このようなサイクルは自然界の循環を生みだします。循環は「輪=○」につながります。
「和」という字の「禾=のぎへん」は、「相対図形の素粒子「)形」と「木」が組み合わさってできています。作りの「口」は「○」に変化します。つまり、「和」とは、万物創生の根源である相対図形の素粒子「)形」と、共生の思想をもつ樹木、それに森羅万象を「和=○」で結ぶ意味をもっていると解釈できると思っています。以上は、私の独善的な考え方ですが、今こそ「和をもって尊しとなす」の教えを考えることが求められているのではないでしょうか。

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