纏向遺跡は卑弥呼の宮殿跡か?

 今回の桜井市纏向遺跡の大型建造物跡の出現に際し、新聞各紙の第一面への掲載、テレビ報道はすさましいものがあります。特に古館キャスターの「報道ステーション」は特番を組むほどです。テレビ報道で、どこの局かわかりませんが、あるコメンテーターは、「私は北部九州九州説です。出土する遺物の数が断然九州の方が多い。たとえば甕棺など…」と発言していました。
 これを聞いた私は、そのコメンテーターは、物質中心の現代的感覚に汚染されていると感じました。

それは、また弥生時代から出発する歴史観という先入観が脳裏に焼きついているのではないでしょうか。縄文時代からの歴史観をもてば、銅鐸や銅矛、銅剣などの青銅製祭器の意味も解けていたはずです。これらの青銅器文化が大陸、あるいは朝鮮半島から渡ってきたことは否定できません。それだけに遅れた縄文文化、進んだ弥生文化というように弥生文化讃歌に近い概念をもってしまったのではないでしょうか。この考え方では考古学的遺物の出土量、いわゆる型式学的研究が優先され、精神面、つまり、縄文人、弥生人はどのような信仰・宗教をもっていたのか、さらにいえばどのような人生観をもっていたのか、という問題の研究がおろそかになります。こういえば、そのような目に見えないものをどのように証拠立てることができるのかという言葉で跳ね除けてしまいます。それは「ないことを証明する必要がない」という天下の宝刀をもっているからです。
 目に見えない思想を証明することは、極めて検証が困難である。あるいは不可能であると唯物論的考古学の立場に立つアカデミズムは考えています。
 しかし、「思想を形で表わす」ことは可能です。とすれば、この逆も可能であるはずです。問題はその「逆も真なり」をどのように証明するのかという、方法論を探し確立することです。簡単に言えば、『記・紀』の記述に潜むそのメカニズムを探しだすことが肝要です。
たとえば、『記・紀』は、蛇・靫・蛭・葦にちなんだ話を書いています。これらの共通点は何でしょうか。蛇から連想される形は螺旋形(蛇行とも呼びます)、渦巻き(とぐろを巻くとも言います)。靫は海に棲息する蛇を太くしたような魚です。陸上には靫かずらがあります。これは蔓科の植物で、その蔓に螺旋形をイメージできます。蛭は血を吸うヒルです。その形に「)」形を、その蛭兒を乗せる葦の形も「)」形をもっています。福井県美浜市の博物館にみる縄文時代の丸木船は、まさに葦の葉のカタチです。
 以上から、、蛇・靫・蛭・葦に見るカタチの基本形は凹と凸を同時にもつ相対図形の素粒子「)」形であることがわかります。この相対図形の素粒子「)」形が、わが国の古代人が「思想を形で表わす」ために使った基本形であると仮説を設定することができます。これを出発点として日本列島に出土する縄文時代の土器・土偶など、弥生時代の青銅製祭器、さらに邪馬台国はどこにあったのか、卑弥呼の宮殿はどこに建てられていたのか、これは『記・紀』をはじめとする文献史料から検証することができます。それは状況証拠の積み重ねという証明方法によるものです。
 纏向遺跡は、卑弥呼の宮殿ではなく卑弥呼の宗女、台与の宮殿だと思います。

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