前方後円墳の起源

学問は、特に歴史学・考古学では、優れた考え方が採用されていきます。先学が長年研究したものであっても、証拠物件と論理的整合性をもつ新説に負けてしまうことは十分に考えられるところです。学問の世界は情に棹さすことはできません。優秀作品が提出され、何十年も研究してきた人の中で血の気を失う研究者が出てくることはあり得ることです。しかし、それは仕方ないことです。そのような状況の人を慰めることはできても、劣る作品を優る作品に代えることはできません。しかし、蔭でいろいろな圧力をかける研究者がいることは知っています。耳こ聞こえてきます。出版に携わる経営者から実際に聞いたことがあります。不都合をこうむったひとは、それで時間稼ぎができたとしても、真実を変えることはできないでしょう。鼎の軽重を問われます。

縄文人が双曲図形・楕円図形を描いていたことは、紛れもない事実です。これを真剣に考えなければならない時がやってきたのです。この双曲図形・楕円図形こそ日本の歴史を塗りかえる核となるものです。
前方後円墳の民間の呼び方に「瓢箪山・瓢塚・双子山・亀山」などがあります。前方後円墳の起源に天円地方説を唱えるあるアカデミズムは前方後円墳のどこに「ひょうたん形」があるのか、と壺形説を唱える人に質問しました。それは反論として使う言葉ではなく、なぜそのような呼び名があるのかを考えるのがプロの仕事だと思います。定形化された前方後円墳のカタチの中に、そのひょうたん形は隠されています。また、前方後円墳本体と周濠の水面に映る合体形にひょうたん形をみることができます。

前方後円墳の起源
前方後円墳の起源に壺形説を唱える岡本健一氏は、次のように書いています。
  
 全国津々浦々にまで広がった壺形古墳の大流行。田中琢は、斉一な墳形のなかに、これを支える共通の「思想と心理」の基盤が認められる、と指摘した(田中琢「倭の奴国から女王国へ」『日本通史』2、岩波書店1993)。じっさい、美術史では「古代の文様意匠はすべて何らかの思想がその奥に流れている。古代において思想をもたない文様は存在しない」(美術史家・井上正「蓮華文――創造と化生の世界、上原真一編著『蓮華紋』日本の美術三五九号、至文堂1996)という。また「神は細部に宿りたまう」(ドイツ出身の美術家A・ワールブルク)ともいう。それならば、「巨大な壺型」という文様にこめられた思想、「撥型」という細部に宿る神とは、何だったのか。そもそも「壺」とは、いったい何のシンボリズムなのであろうか。
 前方後円墳が日本列島独自の墓制であったとしても、自生のシャーマニズムや習俗のなかだけに起源が求められるとはかぎらない。すでに「三成・前方後円」といい、「天円地方」といい、ともに古代中国的な観念の産物と予測したものだ。壺型の平面形もまた、古代中国的な観念の所産の可能性がつよい。解決まで後一歩である。
 「壺」は、ヒサゴ(ヒョウタン・フクベ・ウリ・西瓜・南瓜など)とともに、⑴一般に「子宮・母胎」を表す(アト・ド・フリース『イメージ・シンボル辞典』山下主一郎他訳、平凡社1984 井本英一『境界・祭祀空間』平河出版社1985)は、ウリやヒサゴのようなウリ科の果物は、神の子が生まれ出る「アドーニス(年ごとに死んでは蘇る穀霊の化身)の園(アドーニスにの壺)や「うつぼ舟」の変種であったと説く。今日でも諏訪などのように、甕を「母袋(母胎)」と呼ぶところがあるくらいだ。弥生じだいの甕棺も、古墳時代の前方後円墳(壺型古墳)も、正体は甕や壺であり、「子宮・母胎」と見立てられたのであろう。そこに亡き首長らを葬ることは、胎内回帰と生命更新を祈る行為である。⑵同時に、「壺」は広大な「宇宙」と「楽園=不死の世界」をも意味した。古今東西、「壺型の宇宙」観をもった民族・文化は数多い。とくに東洋では、西方の桃源境「崑崙山」と、東海の神仙境「蓬莱山」は、ともに壺のかたちをしていると信じられた。

 岡本氏が、文様に意味を認める姿勢は、どちらかといえば消極的な専家(アカデミズム)に比べると評価されます。しかし、「三成・前方後円」といい、「天円地方」といい、ともに古代中国的な観念の産物と予測したものだ。壺型の平面形もまた、古代中国的な観念の所産の可能性がつよい、と書くところは気になります。前方後円墳の起源説における天円地方説、および神仙思想説が成り立たないことは前著『前方後円墳の真相』(彩流社2007)に指摘してきました。ただし、壺形説は前方後円墳の起源に密接に関与するものであることは明確に示してきました。
 岡本氏の「古代中国的な観念の産物と予測したものだ」の発言に、わが国の縄文時代の歴史観の欠如による弊害が現実のものとなっています。縄文の歴史から出発しておれば、壺形説に対し中国の神仙思想をもってこなくても、より高い次元から論じることができたはずです。まことに残念というしか言葉がありません。
 岡本氏にとってより深刻なことは、壺の起源を、中国の神仙思想に求めたために「壺はヒサゴとともに子宮・母胎を表す」に対する理論が組めなくなってしまったことです。それは状況証拠的な事例を示すにとどまっています。岡本氏は「弥生時代の甕棺」と書いていますが、念のために甕棺の起源は縄文時代です。
壺を発明したのは縄文人です。その起源は長崎県の泉福寺洞窟遺跡の豆粒文土器が示すように、わが縄文文明にあります。年代的にも世界の他の地域を引き離しております。
 次なる大問題は、長崎県の泉福寺洞窟遺跡の縄文の大賢人が、らせん形を意味する隆起線文土器よりさきに、豆粒文土器を作ったことの意味です。
 一本のらせん形、あるいは、起点を決めて描いた二本のらせん形よりも、柿の種やほかの植物や果物の種のカタチにみる豆粒文(柿の種)形は、新しい生命のもとであることを説明するには最適です(拙著『縄文人の偉大な発見』彩流社2009参照)。それは爪形文よりも優れたものをもっています。このように考えるとき、長崎県佐世保市の泉福寺洞窟遺跡に住んでいた縄文人は相対性を理解し生命誕生の原理に結んでいたことが、その豆粒文土器→隆起線文土器→爪形文土器の順序に表れています。多くの知識と理論を組み立てていなかったら豆粒文土器を最初に作ることはしなかったはずです。
私は縄文の大賢人と呼ぶ理由は、このようなところにあります。相対性原理を生命誕生の原理に応用していたことは、驚嘆に値することです。一八世紀のヘーゲルの「正反合一」の考え方に先行すること一万年以上です。
(前方後円墳に隠されたひょうたん形については、つぎの機会に発表するつもりです。時期は未定)

〔縄文人の思考法に学ぼう〕
双曲図形と楕円図形=相対概念をもてば、これまで見えなかったものが見えるようになり、わからなかったことがわかるようになります。古代史の歴史観が変わります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


*

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください